平成30年度千代田区平和使節団(沖縄・鹿児島)報告書 小林たかや

「集団自決」から思うこと

 プロローグ 語り部 大嶺 初子さん

平和使節団として若い団員と一緒に訪れた、沖縄・鹿児島は、私たち日本人の太平洋戦争の記憶や意識を思い出させる訪問だったと実感しています。戦後73年が経ち、沖縄戦の語り部 大嶺 初子さんのお話を拝聴して、沖縄戦が本土の戦争と全く違った悲惨な状況だったことを知らされました。

この沖縄戦を知らない世代に語り継ぐことで平和の大切さをわかってもらうことこそ自分に課された使命だと受けとめ命の続く限り語り伝えたいと話されていました。

摩文仁「平和の礎」

チビチリガマで83人の住民、乳幼児の命まで命を奪った「集団自決」?

激しい地上戦が起きた沖縄では、県民の4人に1人が犠牲になりました。

沖縄戦の被害は、本土と同一視できないことも今回の派遣でよくわかりました。

沖縄の歴史を振り返ると沖縄は明治政府によって強制併合された県であり、元は日本の一部ではなく本土から見ると「外地」とみなされ本土防衛のための捨て石として住民が根こそぎ戦場にかり出され十数万の命が犠牲になりました。

チビチリガマは沖縄戦の悲劇を象徴する現場の一つです。

米軍は1945年4月2日、約140人が避難していたこのガマにやって来て投降を促しました。恐怖にかられた住民の間で毒薬を注射したり、毛布に火をつけたり、家族で包丁を使って殺し合うむごい集団自決が起きました。

何故このような集団死が起きたのでしょうか。

糸数の壕で説明を受ける派遣団

戦陣訓(日本軍人としてとるべき行動規範を示した文章)を住民に強要していた!

沖縄戦の語り部 大嶺 初子さんは、米軍に捕虜になったら、男は戦車の下敷きにされ、女は暴行されて殺されるという米軍に対する「恐怖心」が植えつけられていたと話していました。また、「捕虜になることは恥ずかしいことだ」「天皇陛下に申し訳ない」ということも教え込まれていました。

日本の軍人には、1941年(昭和16年)1月に陸軍大臣・東条英機が示達した訓令で、軍人としてとるべき行動規範を示した文章がありました。
その中の本訓 其の二 第八 名を惜しむ に

「生きて虜囚の辱めを受けず」とあります。これは、名を重んじ武人としての恥ずかしい行動をしない者は強い。常に戦陣における自分の行動が、直ちに郷里の人々や家族親戚たちの名誉に影響することを考え、一層奮い立って、これらの人々の希望に添うように努力せねばならない。死ぬべき命を生きて、捕虜となるような恥ずかしいことをせず、死んで汚らわしい罪の名を後の世に残すようなことがあってはならない。

沖縄では、こういう教育がなされて住民にも戦陣訓が強要されるという日本軍の強い影響力があったと考えられます。

大嶺初子さんにインタビューする小泉団長

大嶺初子さんは、それでも生きたかった

大嶺初子さんたちは、家族で戦地をさまよい逃げる中で父親が死に場を選んでくれた。米兵が銃を持って歩いている中、父は手榴弾を取り出し死のうと言い、そのことを聞いた初子さんは「やっぱり死にたくない、何があっても生きたい。」と家族に訴えた。家族は説得しようとしたが、それでも生きたかった。みんなが騒いだので、その後米兵に気づかれ捕虜となった。大嶺さんは、不安な捕虜生活を終えて、現在では14人の孫と5人の曾孫たちに囲まれ、幸せな生活を送ることが出来るようになったが、あの戦争を思い出すとき、不安でたまらない。二度と戦争があってはならない。

体験した悲惨な戦争の怖さを、命のある限り伝えていきたいと語りました。

沖縄の花 ハイビスカス 花言葉 「常に新しい美」

平和教育の重要性

沖縄の地でも、戦後73年経過した現在、昨年9月にチビチリガマで洞窟内の遺品が県内の少年4人によって破壊されると言う事件が起きました。彼らは、この場所が集団自決のあった戦跡だと知らなかったと言います。戦争体験者が減少していく中、益々「悲惨な沖縄戦」を後生に伝えていく平和教育が重要性を帯びていく所以です。

私たち、千代田区民も平和使節団を通してこうした平和教育を続けなくてはならないと改めて強く感じた次第であります。